【第2回】親の祖国で高校野球スターになる

韓国体育史の資料によると、「1901年、宣教師として韓国に派遣されたフィリップ・ジレットさんが1903年皇城キリスト教青年会(現YMCA)を設立し、1905年には青年会の会員たちに野球を教え始めた」と記録されている。

韓国に野球が導入された時期は1905年前後と推定されるが、本格的に普及され始めたのは日程時代であろう。1925年、日本の植民地支配下で東大門地区に建てられた景城運動場(後にソウル野球場−東大門野球場と改称されるが、2008年に撤去)は韓国野球の聖地となり、その球場の中で歴史に残る数々の名場面が生み出された。

日本から独立後、「朝鮮野球協会」が作られてから全国単位の高校野球大会が開かれるようになるが、それも束の間、クソ朝鮮戦争が勃発。野球界は3年間の暗黒時代に陥ってしまう。そして、1953年、朝鮮戦争が休戦というあっけない形で終わり、廃墟になった国の再建が大々的に行われる。そんな激動の時代に高校野球大会は再び復活されて徐々に人気が高まっていく。

当時の人々は長引いた戦争による疲労感や戦後の貧しさ、国が真っ二つになった無念さを野球というスポーツを通して慰めていたのかも知らない。ソウル野球場こそが唯一の娯楽手段であり、癒しの場だったのではなかろうか。

동대문야구장

当時の東大門野球場

高校野球時代の序幕と在日僑胞学生野球団の誕生

1956年、高校野球全盛期の序幕となる歴史的な大会が開かれる。「韓国野球協会」と大手新聞社「韓国日報」が共同開催した「在日僑胞学生野球団の母国訪問野球大会」。日本の先進野球の技術を身につけた在日高校生達をかき集めてチームを結成し、彼らとの親善交流を通して韓国高校野球のレベルをスキルアップさせようとする韓国球界の大きな野望が隠されていた大会でもあった。

当時の日本には高校野球部に籍を置いてる在日球児が全国に偏在していたと言われる。なお、夏の甲子園大会への出場が絶望的となり手の空いている選手だって大勢いたはず。しかし、選手選抜の作業は思いもよらない苦難の連続だったという。初代監督イ・スジンさんは日本全国で在日と噂される選手を探し出してはその実力を自らの目で確かめる作業を繰り返すが、殆どの学生が日本名で在籍している。ましてや、在日である事を隠したまま生きている子も多かった。そんな悪戦苦闘の末、生まれた「在日高校野球団」は東京での1ヶ月に及ぶ合宿を経て韓国へ旅立つ。

1956年。韓国のソウル野球場。記念すべき第1回目となる大会が盛大に幕を開ける。韓国の野球ファンの前に姿を現した「在日僑胞学生野球団・재일교포학생야구단」は1ヶ月間、ソウル−大田−釜山−馬山−仁川など全国を回りながら12試合を行い、12戦9勝3敗の好成績を残す。大会後、イ・スジン監督は韓国日報に寄稿した文章で「韓国の選手はバットの握り方すら間違っている」、「守備の姿勢にも問題がある」と述べ、基本技の不在を指摘したという。それは当時の日韓高校野球のレベルの差を克明に表した現実でもあった。

고교야구시대

1956年、新聞社「韓国日報」の莫大な支援で幕を開けた「在日僑胞学生野球団の母国訪問野球大会」

在日貧乏球児から一躍高校野球スターに

1957年、第2回目の大会。新たなメンバーで母国を訪問した「在日同胞学生野球団」は全国で16試合を行い13勝2引き分け1敗という驚く成績を残して韓国内の野球ファンを熱狂させた。当時、このチームのエースだったのが、僕の父であるぺ・スチャン選手。彼はなんと16試合中の11試合に先発投手として登板し、バッターの外角へ流れるキレのあるスライダーで毎試合三振の山を重ねたそうだ。彼の活躍ぶりは国内の各新聞のスポーツ面を飾り、この大会で最も大きな話題となる。

에이스

1957年「在日高校野球団」のエースとして参加したぺ・スチャン選手

当時の韓国球界は野球を盛り上げるためにどういても「多くのファンに愛されるスター選手」が必要だったとみられる。韓国の高校野球レベルでは見た事のないスライダーを投げるサウスポーピッチャー。母校の荏原高校ではむしろ外野手としての評価が高かったので守備もうまい。バッティングセンスも抜群。そこそこ甘いマスクをした好青年の印象を持つ。中学まで朝鮮学校に通ったおかけで在日にしては悠長な韓国語が話せる。父はあの時代の韓国で話題を集めるには充分すぎるスター性を持っていたのではないかと思う。

個人的な見解ですが、現在「サランちゃんのお父さん」と格闘技選手として高い人気を得ている秋山成勲が当時の父に似ているケースだと思いますね。だって、うちの母もはじめて秋山さんをテレビで見た時、昔のお父さんの雰囲気を持っているねって言っていましたもん。あ、外見は抜きにして(笑)。

結果的に父が母国訪問団に選ばれたのが彼の人生を180度変えてしまう転機となり、何年後には生まれ育った日本を飛び出し、韓国へ永久帰国するきっかけにもなったのである。

야구팬

試合後、野球ファンの学生達に囲まれているぺ選手。

韓国野球の発展に大きく貢献した在日球児達

在日高校野球団の母国訪問は1950年代〜60年代韓国の野球発展と復興に多大な影響を与え、70年代から始まった高校野球ブームの出発点になったと評価されています。1956年から続いた彼らの訪問は1997年の韓国経済危機を期に途切れる。41年間の歳月。約1000人の在日球児が母国訪問団を経て行きましたが、のちに日本のプロ野球界と韓国野球界の看板スターとなり大活躍した選手も大勢います。来季から阪神タイガースの監督に就任する方も1986年の在日学生野球団の一員として参加していた事を知っていますか?まぁ韓国ではよく知られている話ですけどね。

엔딩

夢の甲子園球場ではなかったが、在日球児たちは祖国の東大門野球場でイキイキとプレーし韓国の野球発展に寄与した。みなさん、ありがとう!

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マッコリマン
tomodachinguのソウル本部長です。
主に企画をしたり、取材をしたり、文を書きます。
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