【第3回】韓国代表になって日本と対戦する

父が生きていれば、どうしても聞きたい事がいくつかある。なかでも、在日学生野球団の一員で海を渡り韓国の地に一歩を踏み入れた時の感想、そして、韓国代表になってはじめて日本と対戦した日、どんな思いでグラウンドに立っていたのか。

戦後の韓国野球界が見せた素早い行動力は高校野球人気の復興と在日学生野球団からの人材発見という一石二鳥の成果を生み出した。しかし、当時のアジア圏でいう野球強大国の日本とフィリピンに比べると克明なレベルの差があった。次の課題は成人野球リーグの活性化と国際大会で他国と対等に戦える国家代表チームの戦力アップ。

一方、たった一ヶ月の韓国滞在で高校野球スターとなり韓国中にその名を馳せた父は、日本で無事に高校を卒業するが、在日貧乏という現実は変わらず、行き場のない状況に陥る。どうすれば大好きな野球を続けられるのかひたすら模索しながら、家の商売を手伝う日々を送っていた父に韓国野球界が再び手を差し伸べて来た。今度は「在日成人野球団」を作って、韓国の成人野球チームと交流戦を行うという。「君が主力選手になって、このチームを引っ張ってくれ」。

1959年、「在日成人野球団」の一員で再び韓国を訪れた父は、中心選手として全10試合に出場し、イキイキとプレーして大活躍。韓国の野球界をさらに盛り上げた。そして、全ての日程を終えて日本へ帰国する直前、球界の関係者からあっと驚くオファーを受ける。

「もうすぐ、東京の神宮球場で国際野球大会が開かれる。我が国も代表チームを送る事になったが、君も現地で合流して試合に出てくれ。打順は3番、ポジションは外野手だ。日本に帰ってからも休まず練習しとけよ」

なんと、父は生まれ育った日本の地のグラウンドに韓国代表の選手として立たされる事になったのだ。

타이틀2

在日成人野球団の中心選手として再訪韓した父

アジア史上初の国際野球大会

1950年代はアジア圏で野球というスポーツが広まった時期でもあろう。

1954年、アジアの4カ国(日本・フィリピン・台湾・韓国)によりアジア野球連盟が作られて、史上初の国際大会である「アジア野球選手権大会」がフィリピンのマニラで開催される。まさに野球の国際化が実現されたのである。この大会でフィリピンは日本をおろして優勝を果たす。この結果を見ると当時のアジアにおけるフィリピンの位相が分かる。韓国は4カ国の中で一番の貧国。民間航空会社すら存在しなかった韓国の代表選手団は空軍が提供してくれた輸送機に乗りフィリピンまで移動したと言う。

1955年、第2回目の大会もマニラで開催されて、日本が優勝を手にする。その後は各国の事情により、開催が中断になるが、1959年第3回目の大会が日本の東京で再開されて、現在まで2年に一度アジアの国々で開かれる。

生まれ育った日本のグラウンドに韓国代表として立つ

1959年、東京の神宮球場。

父は生まれ育った「JAPAN」のグラウンドに、「KOREA」のユニフォームを着て、立っていた。彼の率直な心境はどうだったのであろうか。野球を続けられる喜びを裏腹に複雑な思いが彼を襲っていたかも知らない。憧れの巨人軍を目指していた在日少年が、大人になり韓国代表の選手になる。人はそれぞれ自分自身に与えられた運命を持って生きるのではなかろうかとしみじみに考える。

大会出場が急に決まり、あたふたと韓国の成人野球選手たちと何人かの在日選手で結成された韓国代表のチームワークはまぁ酷かったらしい。日本に一試合でも勝つのが目標だったそうだが、1次リーグの日本戦で20−1の屈辱的なぼろ負けを食らう。2次リーグでも日本には勝てない。結果的には開催国の日本が優勝し、韓国は何とか準優勝の好成績を残す。

일본대표

スポーツに国境はない

故郷である日本を後にして韓国へ

1960年から韓国野球界は成人野球の大々的な改編を行い、実業野球リーグ(現プロ野球リーグの前身)を活性化する。この時期から多くの在日野球選手が実業野球の各球団にスカウトされて韓国へ渡ってくるが、国家代表の看板バッターだった父をほっておくはずがなかった。

父は家族に「必ず韓国で成功して帰って来る」と言い残し、故郷である日本を後にする。

これが彼の人生で最も重要なターニングポイントであったのは言うまでもなかろう。

あ、父の古いアルバムにあった1枚の写真の裏にこんな手紙のようなメモが書いてありました。男の友情って美しいなぁと思い涙を流してしまった僕です。

「スチャン、さよなら、そして来年もまた来てね。お前がくれた、あんなに大事にしていたBatを本当に嬉しく受け取ったよ。俺も次に会える時までBattinng Skillがけっこう上がるのだろう。日本に帰っても必ず手紙を。Hail Park」
편지2

편지1

当時、アジアの最貧国だった韓国には野球道具が絶対的に不足していた。母国訪問団の在日選手たちは大会後、韓国の選手たちにバットやグローブなどをプレゼントして帰国したという暖かいエピソードもある。多分、父からバットを貰ったヘイルという選手が感謝の気持ちを込めて写真に手紙を書いて手渡したと見られる。

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マッコリマン
tomodachinguのソウル本部長です。
主に企画をしたり、取材をしたり、文を書きます。
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