【第4回】日韓戦、その長い歴史のはじまり

1950年代から現在まで、韓国と日本は宿命のライバルとして、アジア野球選手権大会、世界野球選手権大会、アジア大会、オリンピック、WBCなどの国際野球大会で激闘を繰り広げて来た。今回の連載では、その長い歴史の発祥地でもある1963年の東大門野球場へ皆さんを案内したいと思う。

日本という大きな壁

1961年、第4回アジア野球選手権大会が台湾で開催される。

韓国代表の選手達はは又もや日本という大きな壁を前にうなだれてします。

日本は優勝と共に大会3連覇を果たす。

一方、韓国は今大会でも日本に1勝も出来ず、定番の準優勝止まり。父を含めた韓国代表の選手団は重い足取りで台湾を後にした。

아빠인사

試合前、日本代表の選手団に花束を手渡す背番号22番の父

その後の2年間、韓国では実業野球団が続々創設される。

父は所属チームの4番バッター、そしてリーグの強打者として、毎年首位打者争いをするスター選手に成長。野球人生で最も輝く全盛期を迎えていた。

建国後、初の野球国際大会inソウル

1963年、ついに第5回アジア野球選手権大会がソウルの東大門野球場で開催される。建国以来初の野球国際大会が我が国で開かれるという事で全国が騒いでいた。そして、宿敵である日本代表の選手団がこの地にやって来る。

「何があっても日本に負けてはいけない」と大会前から韓国内の世論は最高潮に湧き上がっていた。

一方、日本代表にも相当なプレッシャーが掛かっていたのであろう。アジアの王座を韓国に奪われる訳には行かない。韓国だけには負けじと社会人野球の最強豪だった「積水化学」の選手達を中心に歴代最強の戦力でソウルへ乗り込んで来たのである。

2度の激闘

アジア野球選手権大会はトーナメント制ではなく、4カ国が各2回ずつ対戦し、最終的な勝ち数で優勝国が決まるシステム。

日本戦の初勝利に挑む韓国代表は在日出身の投手と捕手でバッテリーを組み、同じく在日出身の父はクリーンナップと外野手として出場する。加えて、2年間国内リーグで大きく成長したスラッガー達を総動員させる。

22번

背番号22のぺ・スチャン選手

そして、激戦の日を迎える。全国民がラジオ中継に耳を傾ける中、人の山で溢れ出す東大野球場で1次リーグの日韓戦が始まる。

1回表、日本が1点を先制するが、その裏に4番バッターパク・ヒョンシクが同点ホームランを放つ。その後、きわどい投手戦が展開されるが、7回に韓国打線が一気に爆発。なんと5−3で先勝。韓国は待ちに待った日韓戦の初勝利を飾る。

2次リーグの日韓戦。韓国の1点リードで迎えた8回。5番バッターのキム・ウンリョン選手がダメ押しの2点ホームランを放ち、3−0で快勝。韓国は6戦5勝1敗の成績で優勝国となり、初のアジア王座を獲得する。

↑テレビが普及されていなかった韓国。映画館では本編が始まる前に「大韓ニュース」を流していた。上記は1963年の日韓戦の模様が観られる貴重な映像。背番号22の父の姿も一瞬映っている。

韓国の勝因

大会後、韓国代表のキャプテンだったキム・ウンリョン選手は「試合前に監督からは特に何の指示もなされていなかったが、まるで『死ぬ覚悟で戦え』と言っているかのように悲壮な目付きをしていました。選手のみんなもその意味を分かっていましたね」と新聞のインタビューに答えたと記録される。

キム選手が監督の目付きで読み取った事。僕はこう解釈したい。もしも日本戦に負けたら、選手団に向けられる世間からの非難と国民に与える失望感は考えたくもないし、あってはならないシナリオだった。人間ってギリギリに追い込まれた状況に陥ると不思議なパワーが出せるものかも知らない。それが奇跡であろうがなんだろうが彼らは無我夢中で一つの結果を追い求めていたに違いない。

一方、日本代表の選手達の心境はどうだったのだろう。僕は当時の記録を探しまくったが、彼らの証言を見つける事が出来なかったので僕自身の見解を言おう。彼らはグラウンドの中では力を振り絞って正々堂々と戦っていた事であろう。しかし、そのグラウンドを取り囲む当時の時代背景と観衆の異常な熱狂ぶりに気を吸い取られていたのではないかと敢えて予測する。これはその後、1965年マニラ大会ー1967年東京大会ー1969年台北大会で日本が3連覇を果たす結果を見ても分かる事。まぁ、1971年ソウル大会で韓国が再び優勝するので地元開催の時だけはめっぽう強いのが確かである。東大門野球場は間違いなくパワーポイントであろう(笑)

박정희

1963年の大会後、韓国の優勝を大いに喜んだ朴正煕大統領(現朴槿惠大統領のお父さん)は選手団全員を靑瓦臺に招いて一人一人に勲章をあげたという。

両国の選手にとっての日韓戦

2000年シドニーオリンピックの野球代表で参戦した古田選手は銅メダル決定戦で韓国に負けた後のインタビューで「日の丸を付けて出場した試合で負けるのはとても悔しい。特に韓国に負けたのが辛かった」と語る。そして、その試合で日本のエース松坂投手から逆転タイムリーを打ったのが、後に日本のプロ野球界で活躍したイ・スンヨプ選手。彼は「日韓戦になると選手達に掛かるプレッシャーは相当なものです。他の国との対戦とはまるきり違いますね」と言った。

2006年WBC大会で韓国戦に敗れた後、イチロー選手が発した「FUCK!」を今でも鮮明に覚えている。そして、2008年WBC、韓国と日本の決勝戦。8回裏の土壇場で同点に追いついた韓国だったが、9回表イチロー選手は韓国の抑えの切り札イム・チャンヨンから復讐の逆転タイムリーを打ち返して優勝に大貢献した。当時、一緒にテレビの中継を観ていた僕の仲間はみんなこう言ってた。「日本は憎いけど、イチローだけは認めざるを得ない」。これが日韓戦の全てを物語るのではなかろうか。

日韓戦、その長い歴史は今でも現在形で続いている。今週の日曜(11月8日)、日本で行われる「プレミア12」で韓国と日本は久々にプロのフールメンバーで対戦する。今回はどんなドラマが待っているのか楽しみだな。個人的には大好きな大谷投手と韓国人バッターの勝負に大いに期待しているぞ。

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マッコリマン
tomodachinguのソウル本部長です。
主に企画をしたり、取材をしたり、文を書きます。
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