【第9回】応答せよ1971

僕がこの世に生まれて来た日。産婦人科の分娩室の外で「男の子ですよ」と聞かされた父は思わず「やった〜あぁ〜」と日本語で雄叫びをあげたあげく、一晩中酒を飲んで大はしゃぎしてたと生前のハルモニは語ってくれた。しかしそんな父の様子とは裏腹に、韓国政府は年々爆発的に増えつつある人口に頭を抱えていたらしく「お金を持ってる人はどっかの国へ移民してくれ」という政策まで繰り広げていたらしい。まぁ当時の政治家たちはのちに、この国が『少子高齢化問題』に直面する事を夢にも思えなかったのであろう。

僕が生まれた年である『1971年』の韓国。

政治的にも、経済的にも、韓国近代史の中で最も激動の変革がなされていた時代だと言えよう。

当時の大統領は、今の『朴槿惠大統領』のお父様である『朴正煕さん』。この朴正煕大統領は軍の力で政権を握っては任期末になると憲法をコロコロ変えちゃう裏技をこなし、再選の再選を延々と重ねた結果、16年間という史上最も長い就任期間を誇る大統領として韓国人の心の中に刻みつけられている。そして、彼の統治下の韓国を覚えているのも僕の世代がギリギリではないかと思う。

現代になって、『朴正煕大統領』への評価は大きく二つに分かれる傾向がある。

一つ目は、今でも年寄りの方々がよく口にする『江漢の奇跡』を演出して、80年代から本格的にスタートする『高度経済成長期』の礎石を作り上げた立役者のイメージ。

二つ目は、『軍事政権の独裁者』。国の発展を妨害するという訳の分からないセオリーを作り上げては言論を含めた文化界のさらなる巨匠たちに弾圧をかけ『表現の自由』を抹殺した悪徳大統領。まぁ個人的にもあの時代に一早く民主主義を確立して置いたならば、今の韓国は文化的にもっと多様化された社会になっていたのではないかと判断している。

박근혜

その評価は別として、韓国史上初の親子大統領なのだ

セマウル運動・새마을운동

새마을

現在は東南アジアの発展途上国が、70年代の韓国で繰り広げられたこのセマウル運動を取り入れているそうだ

『セマウル・새마을』を日本語に直訳すると『新しい村』。セマウル運動とは僕が生まれる1年前(1970年)から政府の全幅的な支援と朴大統領の指揮下で韓国全土へ拡大された『地域社会の開発運動』の事である。多少、強制的な政策ではあったものの、韓国がアジアの最貧国から発展途上国へ一段と成長するきっかけとなった革命でもあり、朴さんが成し遂げた偉大な業績の一つと評価されている。まぁその発想力とリーダーシップだけは認めざるを得ないであろう。

そして、70年代には下記の映像に出てくる、テンポの良さだけは抜群の『セマウル運動の歌』が、テレビとラジオのような媒体はもちろん、学校でも、役所でも、職場でも、野球場でも、ともかく『いつでもどこでも』流れていたのだ。

その歌詞の内容を簡単にまとめると、「新しい朝を迎えたよ、みんな起きて働きに出よう、みんなで手を合わせてがむしゃらに働き、我々の力で新しい村を作ろう、そして、豊かな国になろう」というものだった。僕も小さい頃、耳にタコが出来るぐらい聴かされていたな。今でも一文字足らず歌詞を覚えられる程だから、国を挙げての『洗脳教育』がいかに凄まじいものなのかが分かる。

幼年期の記憶

皆さんは幼年期の記憶を何歳ぐらいから思い出せるのだろうか?僕の友人の中には3歳の時をはっきりと思い出せると言い張る奴がいるのだが、いくら記憶力を振り絞っても自分は5歳以前の事が全く記憶にない。そういう訳で、5歳以前の幼年期の事は母の証言を頼りにするしかない。

이중턱

二重顎ですけど、何か?

僕のコワイ姉は、小さい頃からとにかく元気が良く、大きな声で泣いて笑っては家中を飛び回るほどの行動力を持つガキだったらしいが、長男である僕は、その真逆だったそうだ。赤ん坊のくせにあまり泣く事もなく、常時猫みたいに窓の外をボーッと眺めるばかりだったという。

そんな物静かなガキの頃の僕に異変を感じ始めたのが4歳の頃からだと母は言う。ある日、テレビの後ろでカシャカシャという音がして覗きに行ったら、僕がドライバーを手に持ってテレビの後部の板を開け一生懸命に部品をバラしていたらしい。当時のモノクロテレビはめちゃくちゃ高価製品で、買替えまで2ヶ月もブランクがあったという。

テレビ

後ろが問題のモノクロテレビ

あと、知り合いの結婚祝いのプレゼントを買いにデパートへ連れて行ったところ、いきなり女子マネキンのスカートの中に頭を突っ込んでいた僕。周りにいた大人達が爆笑している中、「何でそんな事してるの?」と聞いたら、「オンマ、この人形、パンツ履いてないよ」とニコニコの笑顔で答えたそうだ。その頃からオンマは「この子は頭がおかしいかも知れない」とマジで心配をしてたとか。

엔딩

物静かだけど、好奇心だけは旺盛なガキ

さらに、又もやガキのくせに『イカのスルメ』の匂いが堪らなく好きだったらしく、まだ歯が弱かった僕の代わりにオンマがしっかり噛み砕いてから口に入れてくれたそうだ。そんな僕を見てオンマは「この子は父さん似で、大きくなったら絶対『飲んべえ』になる」と呆れた顔で呟いていたと語り継がれている。

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マッコリマン
tomodachinguのソウル本部長です。
主に企画をしたり、取材をしたり、文を書きます。
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