【第25回】アルゼンチンから日本へ

1990年春、僕はサンパウロ国際空港のラウンジに座っていた。日本行きのJAL便に乗り換えるまでは5時間も空いている。ビールをちびちび飲みながらぼんやりと通り過ぎる旅行客を見ていたら、なんとなくアルゼンチンで過ごした4年間が頭をよぎってきた。

韓国とは正反対の教育制度

高校だというのに毎日13時には全ての授業が終わる。さらにかなりのカルチャーショックだったのが、数学の授業に電卓の持ち込みが許されていたこと。まあ「高校を卒業するまでは電卓さえ使いこなせれば充分」と言う教え方なのだろう。

歴史や社会、国語など他の科目の試験の時にしても「〇〇についての君の意見を書きなさい」とだいてい3問ほどが出されるだけ。これは韓国で受けてきた試験とは真逆の方式だったので個人的には慣れるまで相当な時間がかかっていた。

そして、韓国の大学のように一定の単位を取らないと上の学年に進級が不可能なのも不思議だった。先生の話によると全体の高校生の10%は卒業すらできないという。まさに、「勉強が嫌なら学校で無駄な時間を過ごすより、他の道を選びなさい」と言っているかに見える教育システムだったのだ。

パーティー文化に驚愕

現地の高校に籍を置いてから3日目。クラスメートのマリオ君が話をかけてきた。まぁスペイン語がさっぱり分からなかった時期。半分英語で身振り手振りを交えての会話だったが、大体こんな感じ⇩

マリオ 「Hey、Coreano!君がうちのクラスに入った記念にパーティーを開くことにしたぜ。土曜の12時に俺の家に来いよ」
   「12時って、昼の12時?」
マリオ 「は? 気は確かなのか? 誰が昼の12時にパーティーをするんだ? 夜中に決まってんだろう!」
   「お前、高校生だろうが…」

土曜の夜中。少し早めにマリオ君の家に着いた僕は不思議な光景を目の当たりにした。なんとクラスメートの子たちが自分のお父さんが運転する車に乗って次々と到着していたのだ。

腕時計を見たら深夜の12時すぎだった。高校生の息子や娘をパーティーの場所へわざわざ車で送ってくれて「一晩中、遊んで来い」なんて言う親って誓ってもいいのだが韓国には一人もいないのだろう。

さらにマリオ君のご両親は、音楽をガンガン流してくれては、シャンパンやフィンガーフードなどを満面の笑みで一晩中出してくれた。

みんなは程よくシャンパンを飲みながら、一度も見た事のないラテン系のダンスをする。カップルに見える子たちは人の視線なんぞ気にもせず『キス』を連発。男女の人間同士が『チューチュー』と音を立てて『ディープ・キス』をする光景を間近で見たのは生まれて初めてだったのである。

「中2の時のパンチラ事件で死ぬほど殴られたのは一体なんだったのかな」とマジで悔しい思いをした僕である。

そして朝5時を過ぎた辺り。再びクラスメートのお父さんたちが車で現れ始め、自分の子を次々とピックアップして行く。その有様をじっと眺めながら驚愕していた16歳の僕がいた。

アルゼンチンで失ったモノ

新しい環境に適応するのだけは優れていた僕。高2になってからはソフィー・マルソー似の年上彼女をつくり、『ディープ・キス』だってなんだって経験済みの『真の男』になる。そしてその事実を韓国にいる幼馴染の奴らに手紙で報告したら…。

お前は南米で真の自由を満喫しているのか。こっちは受験戦争で死にそうだぞ、コノヤロー」と羨ましがられていた。

だが、アルゼンチンにいた4年間。我が家族は失ったモノがあまりにも多い。

南米を襲った史上最悪の経済危機の余波で父は事業に失敗して全ての「財産を失い」、資金調達を目的に訪れた日本で心臓発作を起こし「命を失った」。そして突如の悲報を受けた母は数カ月の間「正気を失い」、我が3兄弟は「父親を失った」

その後は食っていくため、母は韓国へ帰国し、ヌナと僕は日本へ、まだ中学生だった弟は一人でアルゼンチンに残るという『離散家族の道』を選ぶしかなかったのである。

僕はJALに乗って日本の成田空港へ向かっている。半年前に日本へ行ったヌナからの手紙にはこんなことが書いてあった。

「半年間、焼肉屋で一生懸命働いてかなりのお金を貯めたの。ビザもおりて4月からは日本語学校に通えるようになったわ。ヒョンちゃんも早く来て、日本はいい国だよ」

엔딩

次回は5月4日(水)更新予定

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マッコリマン
tomodachinguのソウル本部長です。
主に企画をしたり、取材をしたり、文を書きます。
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