【第26回】六本木交差点での決心

夜中に日本の繁華街を訪れるのは初めてだった。どうやら『六本木』という街らしい。人波で溢れる交差点で信号待ちをしながら道路の向かい側に目をやったらタクシー乗り場を起点にして長蛇の列が出来ていた。

「えっ? 日本はタクシーの台数がこんなに足りないんですか?」

僕が向かいの行列を指差して聞くと、「いやいや、それよりさ、タクシーに乗りたがる人が多すぎるのではないかな」とKさんはニコッと笑い、たどたどしい韓国語で答えてくれた。

このKさんは『父の幼なじみで生涯の親友』でもあると母は教えてくれた。確か9年前。初めて日本を訪れた我が家族をまるで血の繋がった親族のように暖かく迎えてくれたのを微かに覚えている。

そして2年前。アルゼンチンで全財産を失い、手ぶらで帰国した父を元気付けようと毎晩酒を酌み交わしていたというのだが、父がおばちゃんの家で寝ている間にこの世を去ったその日も小さな飲み屋で一緒に酒を飲んだとKさんは涙ぐんで語ってくれた。

母はそんなKさんのことを『人生の恩人』だと言っていた。さらに僕がアルゼンチンを立つ前、韓国から国際電話を掛けてきて「日本へ行ったらKさんの指示通りに動きなさい」と何回も念を押していたのである。

いま当時を振り返ってみると父が死んだ後、我が家族に背を向けていた父方の親戚たち(その理由については話が長くなるので省略する)の代わりにKさんは「父に対する無限大の義理を見せてくれた」と言えよう。

というのも、Kさんは我が家族が食っていくための秘策を色々と提案してくれたようだが、実際に母は彼の助けを受けて割と早く韓国で独り歩きできる環境を整えたのである。

あと、Kさんは素早く姉を日本へ呼び寄せて仕事を与え、実際に日本という場所がその後、弟と共にやっていける国なのかどうかを判断させた。もちろん、自分の近くに置いて保護したかったのもあったのだろう。

幸いなことに姉は、父の影響を受けたせいなのか、日本の生活環境には何の抵抗もなく、弟である僕もすぐ馴染むのだろうと思ったようだ。

まぁそんなわけで、僕はKさんの大学の後輩が経営する焼肉レストランへ面接を受けに今まで見たことのない華やかな街に来ている。

「あれこれ職種を選べる余裕などないし、生活のためには取り敢えずがむしゃらに働かねばならない。そうやって1年間お金を貯めて来年は日本で学業を続けたい」

多分、僕はそんな心構えで六本木のど真ん中に位置するビルのエレベーターに乗ったような気がする。そして3階のお店の入口の前。僕はKさんの背中を前に深呼吸を一つしてから店内へ入った。

次回は6月8日(水)更新!

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マッコリマン
tomodachinguのソウル本部長です。
主に企画をしたり、取材をしたり、文を書きます。
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