【第5回】孤独の首位打者

1960年代の韓国野球界。不思議なことに在日出身選手に対する差別が存在していたらしい。在日選手は球界から特別扱いされているという偏見から生まれた嫉妬で一部の韓国人選手は在日選手を冷たい目で見ていたという。実際に父は相手チームの意地悪ピッチャーから顔面にデッドボールを当てられて、前歯が3本抜ける大怪我を負った事もあったそうだ。そして、ソウルに住み着いた初期には私生活の面でもいろいろと苦労が・・・

父が韓国へ渡って来て初めて住み着いた場所は「鷺梁津/노량진」
不思議な偶然だが、僕が約10年間の日本滞在を終えて帰国し、通っていた会社も同じ街にあった。

1960年のある日、笑えないエピソードは起こる。

父はまだ見慣れてない街を散歩して、帰る際にスーパーに寄って買い物をしていた。コーヒーはどこにあるのか。砂糖はあるのか。お店のオバちゃんにいくつか質問をしたのだが、これが問題の発端。父の辿々しい韓国語の発音を不審に思ったオバちゃんは電話を手に取る。

「体のデカイ不審な人が来てるよ。北朝鮮のスパイかも知りません。早く来て〜」
なんと交番へ通報をしたのである。

そして、すぐさま、二人のお巡りさんがスーパーに駆けつけて来た。
「貴方は韓国人ですか?」

「そうですけど、日本から来ました」

「えっ!韓国には何の用で来てるんすか?」

「◯◯チームで野球選手をやっておりますが・・・」

「は?野球選手?名前は?」

「ぺ・スチャンです」

「あれ?あんたが韓国代表のぺ選手?」
幸いに一人のお巡りさんが大の野球ファンだったらしく、父の活躍を新聞で読んでいたようだ。

「オバちゃん、この方、めっちゃ有名な野球選手じゃないですか!」
とお巡りさんはスーパーのおばちゃんをめっちゃ叱ったとか。

まぁ、野球がテレビで中継されていない時代だったので仕方ない。それに、当時は韓国全土のあちこちに北朝鮮のスパイが隠れていた時代でもあったのだ。

간첩신고

当時の韓国の電信柱には必ずこういうのが貼られていた。 スパイ通報は113。

念願の首位打者になるが寂しさは消えない

1964年、父にとっては野球人生の中で最も記念すべき年。

過去3年間、取れそうで取れなかった首位打者タイトルを獲得して、韓国野球史にその名前を載せたのである。それは生まれ育った日本を離れ、新天地で私生活の苦労や野球界の差別と戦っていた辛い思いを一気に吹き飛ばす快挙だったとも言えよう。

시상

首位打者になった功績でチームから賞状を貰う。

グラウンドの中ではリーグを代表するスター選手。外に出ると追っかけ隊が彼を待ち構えていたが、家に帰るといつも独りぽっち。念願の首位打者になっても祝ってくれる家族が一人もいない。無我夢中で野球に生きた甲斐は「名声と富」で返って来たが、矛盾にも寂しさは深まるばかりだったのである。

次の目標は家族作り

30になる前に結婚をして家族を作るのだ。父はとっさに行動に出る。

試合がない日はお見合いをしたり、頻繁に飲み会やコンパなどに顔を出しては女性芸能人を紹介して貰ったりで、猛烈な婚活に挑むが、お気に入りの女性はとうてい見つからない。どうやら、父は婚活市場での打率はよくなかったらしい。それとも、女性の趣味がかなり変わった人だったのかも知らない。

そんなわけで、何年かを棒に振り、独身野郎のまま20代が過ぎ去ろうとした29歳の夏場。知人の紹介で出会った19歳の女の子に「一目惚れ」をしてしまう。有名な女優さんとデートをした時も頭を出さなかった「恋心」という奴が背筋を伸ばしてついに起き上がった瞬間とも言えようか。この私が早くも小3の頃、経験した「一目惚れ」を、野球バカであった父は29になってやっと体験したのだ。

父はとにかく「一目で結婚を決めた」と生前に語っていたな。

きっと、それが世間でいう「運命的な出会い」だったのではないかと思う。

엄마

↑野球バカをメロメロにさせた女性、この人です。

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マッコリマン
tomodachinguのソウル本部長です。
主に企画をしたり、取材をしたり、文を書きます。
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