1982年3月27日。ついに韓国にも念願のプロ野球リーグが誕生する。満員御礼となった東大門野球場では開幕セレモニーと共に韓国野球史に残る記念すべき第一試合が盛大に行われた。
当時の韓国。超高度経済成長期の真っ只中ではあったものの、プロ野球リーグを構築するに適したインフラが充分に整えてなかったと球界の関係者たちは口を揃えていたらしい。そして数十年後、球界の元老になった彼らは「むしろプロ野球リーグの出帆が一瀉千里で進められたのは当時の韓国政府の強い意志によるモノだった」と証言している。
理由はだった一つ。軍事クーデターで政権を握った当時の全斗煥大統領は軍事政権に不満の声を上げている国民たちの視線を絶対的な人気を得ていた野球というスポーツに向けさせようとしていたのである。
まぁその裏話はともあれ、今や国際大会でアメリカ・日本といった野球先進国と対等に戦える韓国野球の底力を目の当たりにしている一介の野球好きに過ぎない僕としてはプロ野球リーグの導入こそは全氏のやり遂げた『唯一の業績』であると評価してあげたい。
1リーグ制・6チームでスタート
今は10チームまで増えている韓国のプロ野球リーグだが、元年には6チームでスタートされた。
それでは左上から順番に羅列してみよう↓
①サムスン・ライオンズ(大邱)
②ロッテ・ジャイアンツ(釜山)
③ヘテ・タイガース(光州)
④OB・ベアース(大田)
⑤サンミ・スーパースタース(仁川)
⑥MBC・青龍(ソウル)
今の韓国のプロ野球に詳しい方なら一発でお分かりになると思えるのだが、元年から現在まで母体企業が変わっていないチームは『サムスン・ライオンズ』、『ロッテ・ジャイアンツ』、『OB・ベアース』(現在はソウルをホームとするDOOSANベアース)の3チームのみ。
そして何と言っても韓国プロ野球元年のスーパースターは『白仁天さん』。
彼は韓国から日本へ移籍した第1号選手で1963年から1981年までロッテ・オリオンズを含めた日本のプロ野球6チームで活躍した強打者であった。まぁ僕の世代がギリギリかも知れないが、彼の存在を知っている日本人の方も多いのであろう。
その白さんは韓国のプロ野球開幕に合わせて帰国。『MBC青龍』の監督兼4番バッターとして大活躍しながら、未だに破られていない打率『.421』をマークし首位打者のタイトルを獲得するのだ。
伝説の在日選手『너구리』
いくらプロ野球時代を迎えたと言っても、浅い選手層で拙速なチーム作りをせねばならなかった各球団はスター選手の不在に頭を抱えていたようだ。特に他の球団よりだいぶ遅れをとってリーグ参戦を表明をした『サンミ・スパースタース』なんかは、シーズン中『OBベアース』(元年の優勝チーム)に一試合も勝てない屈辱的な記録を残し最下位でシーズンを終える。
その『サンミ・スパースタース』。もはや国内では選手の補充が難しいと判断して日本の球界で活躍する在日韓国人選手に目を向けるようになる。そして翌年の83年、日本から一人の在日投手を期待のエースとして迎え入れるのだが、その名は『福士敬章』(韓国名:チャン・ミョンブ)。
彼はNPBで活躍した13年間で91勝を記録した名投手で、『広島東洋カープ』に在籍していた全盛期の頃、2度も15勝をマークした貫禄の持ち主でもあった。
【下記は球団社長と臨んだ入団会見の模様】⇩
福士 20勝は当たり前。30勝だって出来るよ。いや、30勝出来なかったら引退する!
社長 ちょ…ちょっと、20勝で十分ですって。
福士 そんで、30勝達成したら何をしてくれます?
社長 ははは。(鼻で笑って)ボーナスで『1億ウォン』をやってもいいぞ。
福士 よし、やったろうじゃねーか!
上記の漫才のような会見内容は翌日、各スポーツ新聞の一面を大きく飾っていた。まぁ野球ファンたちの反応はだいてい「なんて生意気な奴だ」やら、「韓国野球を舐めやがって」とかだったと覚えている(それに当時の1億ウォンはバカ大金)。
しかし、83年のシーズン中、韓国の野球ファンたちはあの生意気な投手の疲れを知らない腕で奇跡を目の当たりにする。さらにシーズン後、彼にボロクソを言っていたみんなは開いた口が塞がらない思いをしたのだった。
なんと福士投手は、シーズン中にチームが行った全100試合中、60試合に登板、トータルでなんと427イーニングを投げ、『2.34・36完投・6完封・30勝16敗6セーブ』という考えられない成績を残したのである。
それにバッターの頭の方へきわどい玉をしょっちゅう投げて、相手チームの選手たちを苛立たせたのだが、その度にニコッと笑う図々しさとセンスを見せていたのでホームのファンたちは彼のことを『너구리=タヌキ』と呼んでいた。
当時、球団のホームだった仁川地域は連日『너구리フィーバー』が起こっていたようだ。前年度7万人ほどだった観客動員数が一気に35万人まで急増。グッズもバカ売れ。試合の日は街の酒場が人で満杯。といったら経済効果も凄かったらしく、仁川のファンたちは『너구리投手』にいつも『インスタント麺・너구리』を箱ごとプレゼントしていたとか。
そんで、気になるボーナス『1億ウォン』はどうなったのかって?
シーズン後、球団社長は困った顔をしながら入団会見で言ったのは冗談だったとスルー。結局一銭も貰えなくて『너구리』はがっかりしていたというエピソードは今でも韓国野球界の秘話として語り継がれている(笑)。
実はうちの父親も彼が在籍していた期間中、同じチームでヘッドコーチを務めていた。そして1ヶ月に2〜3回はうちへ飲みに来て、ニコニコの笑顔で僕にお小遣いをくれていた太っ腹の『너구리投手』の姿を今でも鮮明に記憶している。
韓国球界の伝説『너구리投手』は1986年まで韓国でプレーした後、現役を引退して日本へ帰国する。そして2005年、故郷の和歌山県で経営していた麻雀店のソファーで寂しく生涯を終えたそうだ。
80年代に韓国プロ野球リーグを大いに盛り上げてくれた너구리投手こと『장명부・福士敬章さん』にこの文を捧げます。