この連載の内容は生前の父の証言、韓国の各新聞社の記事、日本で発刊された書籍、ドキュメンタリー映画、父の幼馴染の方々の証言、自分自身の記憶に基づいて作成しております。
僕は祖父と祖母の顔を一度も見た事がない。というのも、祖父は父が高校生の時に亡くなり、祖母も父が結婚する前に自らの意思で日本から万景峰号というフェリーに乗り故郷である北朝鮮へ帰ってしまったからである。祖母が北朝鮮へ渡った行為には大人の事情があった訳だと思うが、それについては後にこの連載で明かす事にして、今回は父が生まれ育った環境を当時の時代背景と共に説明させて頂きたい。
小さいころ父から聞いた話によると彼の両親、つまり僕にとっては祖父と祖母である二人は日帝時代の貧しさに耐え切れず、仕事を求めてほぼ手ぶらの状態で日本へ移住したそうだ。その時代は国民の殆どが貧乏だったらしく、食って行くお金を稼ぐために、または家族を養うために、あるいは力関係上背中を押された形で、大勢の人が止むを得ず日本行きを決めたとどっかの歴史本で読んだ事がある。
あと、これは余談に過ぎないが、僕が小学生のころ、父は家で酒に酔うと「父ちゃんは小さい頃に戦争を経験したけどめっちゃくちゃ怖かったよ」と呟いていた事をかすかに覚えている。しかし、そのころは父が口にしていた戦争が何を示すのか僕に分かるはずがなかった。だって、ややこしい歴史の話よりマジンガーZに夢中なガキだったもの。
父が酔った勢いで漏らしていた戦争の事。それが第二次世界大戦の末期に起こった米軍による「東京大空襲」だと知ったのは二十歳前後の事である。日本の近代史本の中に書いてあったその文句を目にした瞬間、父の顔が頭に浮かび、生まれてはじめて「オヤジは大変な時代を生き抜いた人だね。ご苦労様でした!」と酒を飲みながら直接伝えたい気になったものの、既に父がこの世を去った後の出来事なのがとても悔しかった。
そんな大変な時代の真っ只中。祖父と祖母は苦難を乗り越えて何とか日本に定着し、一生懸命働きながら一男三女を儲ける事になるが、1930代の後半に東京の品川で生まれたその一男が30余年後に韓国のソウルで一人の女性と出会い、のちに僕が生まれる事を誰が予測したのだろうか。
目指すは永遠に不滅の巨人軍
ともかく超貧乏な在日家庭で生まれ育った父であるが、夢だけはデカかったようだ。小学生の時から野球に夢中で、あの時代の少年なら誰もが憧れていたのであろう「巨人軍」が三食の飯より大好き。さらに将来の夢は巨人軍の一員になる事。しかし、愛国心に燃える頑固な両親の強要で中学までは野球とは何の縁のない朝鮮学校に通わざるを得なかったものの、どうしても野球がやりたい一念で親の反対を振り切り、自力で荏原高校(現日体荏原)へ進学する根性を見せつける。
つい最近、韓国で公開されたあるドキュメンタリー映画を観て知ったのだが、当時の荏原高校って関東地区では三本指に入る程の野球名門校だったらしい。でも、そんな名門校に進学出来たと喜ぶのも束の間で、早速意地悪い先輩達から嫌味を食らう。「お前はキムチ臭いから近寄るな」と言われた父は意地を張って高校に在学していた3年間、大好きだったキムチを一度も食べなかったとか。これも酔っ払った父がよく語っていたエピソードの一つだったな。
実はこのキムチ問題ってメジャーリーグでも起こっていたそうです。その主人公は韓国が誇る朴賛浩選手。アジア人としてメジャー通算124勝を挙げ、野茂英雄の123勝を超えてメジャーリーグにおけるアジア人最多勝記録を作った偉大な投手です(現役末期に1年間オリックスに在籍)。彼もメジャーリーグのルーキー時代にチームメイトからキムチ臭いと虐められ、その後はチーズばかり食べていたとどっかのインタビューで述べていました。
まぁ、この辺の話に深入りするのもあれなので、全ての責任はキムチに入っているニンニクの臭いにあるという理論で適当に片付ける事にしよう(笑)。
在日の貧乏球児としての壁
確たる意思で野球名門校へ進学し、本格的な野球選手としての第一歩を踏み出した父は着実に腕を上げて行った挙句、レギュラーの座を勝ち取り、投手兼外野手として大活躍するに。2年生の頃からは野球部内に澎湃していた在日の偏見もだいぶ薄まり、漸く野球だけに専念出来る黄金期を迎える。やっぱ、スポーツというのは実力優先で動いてるもので、最後には強い者だけが生き残る世界ではなかろうか。
野球部内での順調ぶりとは裏腹に在学していた3年間、甲子園大会とは全く縁がなく、3年生の夏なってからは卒業後の進路をどうすべきか目処がつかなくなる。甲子園に出場して好成績を残さない限り、日本の野球界から注目されるチャンスはない。ましてやプロ球団からの指名を受ける可能性もゼロに近い。さらに家が貧乏なので、大学に進学するお金はなく、二進も三進も行かない状況に陥ったのである。
プロ野球選手を夢見て頑張って来たそれまでの努力が水の泡になりかねないのが悔しくて頭を抱えていた高校3年生の夏のある日。一度も行った事がない、また行こうと思った事すらなかった両親の祖国からのある誘いがきっかけとなり、在日の貧乏球児は人生で最も大きな転機を迎える事になる。