【第16回】父の家族の悲しい歴史

ついにこの連載が大きな山場を迎えたと感じている。日本のみなさんは『北朝鮮の話題』になるとどうしても『政治的な観点』で捉えてしまう傾向があるように思える。まぁあれだけ悪さをぶちかます国なので無理もない。しかし、韓国人における『北朝鮮』はひとつの家族の存続まで揺るがす、『ごく現実的な問題』であることを知って貰いたい。

父が生まれた故郷『日本』という国で過ごした1ヶ月は小5の僕にとっては驚きの連続と共に韓国より広くて時代を先走る世界が存在するのを知るきっかけにもなった。さらにどこで誰に会おうが笑顔で迎えられる父の姿を横で眺めるだけで僕自身も心が温かくなったとかすかに覚えている。

和気藹々の送別会

我が家族が韓国への帰国を三日後に控えた日曜日。大きい叔母ちゃんの自宅に15人に及ぶすべての家族が大集合して送別会を兼ねた鍋パーティを開いた。皆は過ぎた1ヶ月間の思い出を語り合い、「次回のパーティは韓国でやろう」と意気投合するなど和気藹々の雰囲気。

大人たちは顔を赤く染めて、ワイワイ。子供たちはカルピスを飲んで、キャーキャー。調子に乗っていた僕は食事が終わった頃に韓国のお笑い芸人のモノマネを披露してその場を大きく盛り上げた。

「まさに今冬最高のフィナーレ」

その場にいた誰もがそう信じていたのであろう。

『金日成将軍様、万歳』

みんながワイワイする中、カルピスを飲み過ぎた僕はトイレで用を済ませてから一息入れようとリビングルームのピアノの椅子に腰を下ろした。そしたら一冊の楽譜が置いてあるが目につき、何気なく表紙をめくってみた。

が、1ページ目の上段に書いてある歌のタイトルが目に入った途端、胸がぎくっとする衝撃を感じて言葉通りその場に凍りついてしまったのだ。そして自分の目を疑い何度も何度も食い入るようにその『歌のタイトル』を読み返してみた。

『金日成将軍様、万歳・김일성장군님 만세』

目を擦ってもそのハングルのタイトルは変わらない。その数秒間、まるで映画館のスクリーンに映り出されたかのようにさまざまな記憶が僕の頭をよぎる。学校の先生に教わった言葉「金日成は我々の敵」、ソウルの電信柱に書いてある「スパイ通報は113」、テレビのニュースでみた「北朝鮮の◯◯蛮行事件」…。

「どうして叔母ちゃんの家にこんな楽譜が置いてあるんだろう?」

そんな僕の様子に感づいた叔母ちゃんは一足で駆けつけてきて、「ヒョンちゃん、こんなの見ちゃダメよ〜」と声をあげて、慌ただしく楽譜の表紙を閉じた。さらに「ヒョンちゃん、よく聞きなさい。これを見たことは韓国に帰ってから誰にも言っちゃいけないのよ。絶対ダメ!」と震える声で念を押した。僕を囲んでいた大人たちはみんな戸惑った顔でお互いを見つめあっていた。

人生初の日本旅はそういう風に後味悪い形でフィナーレを迎えたのである。

僕の思い出の中には東京タワー、後楽園遊園地、横浜、箱根温泉、大阪旅、といった楽しい記憶がたくさん盛り込まれているが、その裏側には『あの楽譜の悪夢』が鮮明に刻まれている。

父の家族の悲しい歴史

その後、あの楽譜の謎か解けるまで約10年の歳月が掛かった。僕がちょうど二十歳を迎えた年だと覚えているが、ソウルのとある酒場で母と一緒にビールを飲んでいた。そして色んな話題で話が盛り上がったところで、僕はうちではタブー視されていたあの楽譜のことを切り出してみた。すると母は一瞬戸惑った様子ではあったが深いため息をついた後、ついに口を開いたのである。

参考:1960年代の北朝鮮は日本にいる在日韓国人を祖国へ呼び戻す政策を大々的に実施したと言われるが、歴史の本には『在日朝鮮人北送事業』と記載されている(1959年から1984年まで約93000人の在日韓国人が北朝鮮へ永久帰国したと記録されている)。

父方の祖母は日本での『差別と貧困』に絶え切れず、何人かの親戚と共に北朝鮮行きを決心したという。当時の祖母の計画はこうであったようだ。『自分自身は北朝鮮でやっていく方法を模索する』『長男は韓国で頑張って貰う』『残りの娘たちは日本で働く』。要するに一旦家族全員が3カ国に別れて死ぬ気で頑張り、どっちかが食っていけるようになったらその地に再び集まって暮らせばいいという考え方だったらしい。

でも、北朝鮮という国は自由に入国しても、出国は決して許されない地獄。結局、日本に残された家族が祖母へ延々と仕送りをせねばならない状況に陥ったそうだ。

一方、父はあれだけ韓国の野球界に貢献したにもかかわらず、北朝鮮に親族がいるという事実だけで軍事政権下の国家情報機関に常時マークされていたという。さらに1968年。韓国社会を大きく震わせた『スパイ31人浸透事件』の時なんかは、何のつながりもないのに情報機関に拘束されて何ヶ月も拷問を受けたというのだ。

それが結婚1年目のこと。その後父は止むを得ず現役を引退したのである。

話を終えた母は顔を伏せて泣き出した。僕は驚愕に絶えず泣いてる母をただ見つめることしかできなかった。。

父の寂しい残像

俳優ソン・ガンホ主演の映画『弁護人』を観ると似たようなエピソードが出てくる。わずか50年前の韓国はそんな荒唐無稽な出来事が平然と繰り広げる恐ろしい国だったようだ。

今でも毎晩酒に酔って寂しい表情を浮かべていた生前の父の姿がたまに蘇ってくる。その度に父とその家族は悲しい歴史が産んだ被害者だったのではないかと考える。まぁ他にもそういう人たちは沢山いたのであろう。

母は一度だけ、何年かに一度北朝鮮を訪問していた叔母ちゃんを通して父方の祖母に『我々3兄弟の写真とセーター、そして自ら書いた手紙』を送ったことがあるそうだ。それを手渡された時の祖母の気持ちはどうだったのであろうか。もしあの時、祖母が間違えた選択をしなかったのであれば、我々はもっと幸せになっていたのであろうか。たまにそんなことを考えて複雑な気分に包まれる僕である。

まぁ悲しい話はこれっきりにしよう。なんだかんだ言われても、今は昔よりは遥かにいい時代ではないか。くれぐれも『希望と平和』が溢れる世の中になって欲しいと願って今回の重苦しい連載を終える。

次回の連載は2月3日(水)に更新予定です。

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マッコリマン
tomodachinguのソウル本部長です。
主に企画をしたり、取材をしたり、文を書きます。
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