家の庭の真ん中。空を見上げてタバコを吸っているハルモニの後ろ姿が見える。僕は何度も「ハルモニ〜ハルモニ〜」と声をかけるが、一向に振り向いてくれない。
「ハルモニ、どうしたの? 何を見ているの?」
ハッとして目が覚めたら飛行機の中。ふと隣席に目をやる。金浦を出発してからずっと泣き崩れていたオンマはぐっすり眠っている。
水を打ったように静かな機内。ほとんどの乗客が眠っている中、父は隣席の日本人とひそひそ声で会話をしている。あ、そうだ。この大韓の飛行機って成田を経由してロスへ向かうのだったっけ。僕の脳が深い眠りから覚めてやっとまわり始めた気がした。
その何時間後。着陸準備に入るという案内放送が流れる。そして一人のCAがオンマに近寄り「すみません。家族一同のパスポートをお願いします」と声をかけた。オンマは黙ってハンドバックからパスポートを取り出しCAに手渡す。するとそのCAは「くれぐれも他の乗客が全員降りてから、お降り下さいませ」と念を押しその場を離れた。
着陸後、さらに30分が経過。僕はほとんどの乗客が抜け出した気がして、機内を見渡した。残されているのは我々の他に2組の韓国人家族だけ。うーむ、この人たちもアルゼンチンへ移民をするのだろうと思った時、ようやくCAからOKサインが送られる。
飛行機を出て、少し歩いたところには警官のような制服を着た3人の男性が我がグループを待ち構えていた。一人は黒人(めっちゃデブ)、一人は白人、一人は小柄の東洋人。さっきのCAは彼らと軽く挨拶を交わし、多分みんなのパスポートが入っているのであろう書類封筒を東洋人の男性に手渡してからさっさと立ち去っていった。
「ヒョンちゃん、これ人間なの?」。いきなり弟のポンちゃんが黒人のデブを指差してこう言いだしたのだ。「お前、指さすなよ! クマかも知れないぞ、バカ!」。神に誓ってもいいのだが、あんなデブを韓国では一度も目にしたことがない。
すると、こんなバカ兄弟の会話にクスクス笑っていた東洋人の男性は流暢な韓国語でこう切り出した。「私はキム◯◯と申します。明日まで皆さんをケアしますのでよろしくっす。あ、この人はチャーリー、そしてこのクマちゃんはトムです。ハッハハハハ」。
韓国人の間では爆笑が起こったのだが、チャーリーさんとトムさんはまるで訳がわからないといった顔で「What’s up?」を連発。それにビビっていたポンちゃんは父の後ろに隠れてクマちゃんの怖い顔をじっと眺めていた。
その後、我々一同はバスに乗ってホテルへ。親切なキムさんはみんなのチェックイン手続きを済ませ、それぞれの家族の部屋までわざわざ足を運んでくれた。さらに部屋の外で10分ほど待機し、再び全員が揃ったタイミングでホテル内のレストランへ我々を案内してくれた。
てっきりそこまでが彼の役割だと思っていた。だが、この3人は隣の席で雑談をしながら一緒に食事をしている。そしてみんなが食事を終えた頃に我が家族のテーブルへ近寄ってきて、父にこう話かけたのである。
「あのーパスポートを見てまさかと思ったのですが、野球をやっていた、あのぺさんですよね?」。父が照れくさそうに頷くと。「いやいや、ぺさんが現役の頃、大ファンでしたよ〜ちょっとサイン貰っていいっすか?」。おや、これは面白い展開になってきたぞ。
父とキムさんが向き合って生ビールを飲んでいる。僕はキムさんの話がどうしても聞きたくて父にねだり、なんとか一緒にいさせて貰った。
キムさんは韓国で生まれた孤児。二十歳の頃にアメリカへやってきて、不法滞在をしていたそうだ。そして5年間、バーの洗い場、病院の清掃員、工事現場の雑務などを転々とするが、運良くアメリカ政府による不法滞在者への赦免で永住権を手にしたらしい。今はアメリカの女性と結婚し、ロス空港の保安課に就いているとのことだった。
「たった5年前まで不法滞在をしていた僕が今は同じ韓国人の見張り役を担うとは夢にも思いませんでした。今、アメリカには様々な国籍を持った人々が不法滞在をしているのですが、その中でも韓国人がダントツで1位ですよ。まぁ僕みたいな人間が多すぎたため、ぺさんみたいにアメリカを経由する方々にご迷惑をかけていることを皮肉に思っています。本当に申し訳ありません」。
なんだ。そういうことだったのか。やたら親切だと思っていたキムさんって我が家族の見張り役だったのか。どうやら、我々が部屋で寝ている間も、廊下の椅子に座り込み徹夜をしなければならないらしい。ということは。「一晩とはいえ、我が家族はこのホテルの部屋に監禁される状態になるのか…」。
当時の韓国は、所詮そんな国だったのだ。先進国を旅するには厳しい審査を通過せねばならない発展途上国。今はアメリカも日本もヨーロッパーもVISA無しで自由に行き来する時代なのに、90年代までは不法滞在者・密入国者の代名詞だった『KOREA』。
そんなわけで、初めて訪れたロスのホテルに監禁されていた僕。みんなが眠っている夜中にこっそりと部屋を出て廊下に座って本を読んでいるキムさんへ近寄ってみた。彼はニコッと笑って「ちょっと散歩でもしようか」と言って、僕をホテルの外へ連れ出し『LAドジャース』のことを延々と説明してくれた。
そして、キムさんはポケットからタバコを取り出して一服モードに入る。僕は彼のタバコの煙を目で追いながら、ふと夢で見たハルモニの後ろ姿を思い出した。一瞬、涙が出そうになったけど、ぐっと堪えたと記憶している。
「親切なキムさん、今は何をしているのかな?」
野茂英雄がドジャースのユニフォームを着て初登板した日。日本でテレビの中継を観ていた僕はなぜか人生初で最後だったロスでの一泊を思い浮かべて、つぶやいた。