【第13回】はじめての日本旅行

小5の夏休み中のある日。父は夕食のテーブルでシーバスウィスキーのロックを飲みながらニコニコの笑顔で「今年の冬休みには家族みんなで日本へ遊びに行くぞ」と信じられない重大発表をした。姉と弟は「やっと海外へ出れるよ〜」、「わーい!飛行機に乗れる!」と大はしゃぎだったのだが、僕は祈りを捧げる姿勢で両手を合わせ「やっと聖子ちゃんに会える…」と内心打ち震えていた。

『前々回の連載』にも書いたのだが、当時の韓国は大人でも自由に海外旅行ができる時代ではなく、我々3兄弟は冬休みに海外へ出ることをまず学校に報告せねばならなかった。さらに、その報告書が教育庁(日本の文部省)へ渡り一定の審査を経て海外旅行を許可する認定書が発行されたのである。そうやって各種書類を揃えた上で、ようやく日本の領事館でVISAの申請を行えるといったややこしい手続きが必要だった。

『1981年の12月』。全国の小学校が一斉に冬休みに突入した翌日。大雪で出発が多少遅延されたものの、我が家族が乗っていた飛行機は金浦空港の国際線ターミナルを無事に出発して、約2時間半後には成田空港へ到着。長い蛇列だった入国審査を終えて、やっと空港の外へ出る。そして韓国のそれとさほど変わらない夜空を眺めながら父の故郷である『日本の地』に生まれて初めて足を踏み入れたのである。

リムジンバスで感じた日韓の差

日本に到着した頃には既に日が暮れていたが、韓国ほど寒くないのに気付いた。父は馴れ馴れしい身動きで我々を空港の外のバス停らしき場所へ案内。そして我が家族は数分後に到着したオレンジ色のバス(リムジンバス)に次々と乗り込む。僕はドライバーさんが見える席に腰を下ろした。

決して自慢話ではないが、僕は小学生の割に観察力だけは若干優れていたような気がする。韓国の車なら左側にいるはずの運転手さんがなんと右側に座っているのではないか。おそらくこれがはじめて僕の目に付いた韓国と日本の違いだったのであろう。

さらにバスが高速道路へ進入し加速がついてから徐々に感じ始めた何とも言えない『乗り心地の良さ』を今でも鮮明に覚えているまるで宙に浮いているような不思議な感覚。それは韓国の乗り物では一度も感じたことのないある種の衝撃たるモノだった。

その乗り心地の良さの謎はおそらく当時の日韓の車の質の差だったのであろう。つまり、『韓国のマニュアル車』『日本のオートマティック車』の違いではなかったのかと思える。そしてこのような日韓の経済レベルの差で感じ取れる『戸惑い』を日本に滞在している間、僕は様々な場所で経験することになるのだ。

父の家族にはじめて出会う

リムジンバスが到着したターミナルには父のお姉さん二人が我が家族を出迎えてくれた。何度か電話で話したことはあるが、直接顔を合わせるのは初めてである。お二人は我々三兄弟を一人ずつ順番に抱きしめ、号泣をしながら拙い韓国語で「やっと会えたのね・드디어 만났구나」と声をあげる。そんなおばちゃんたちの姿を側で見守っていた父と母もいつの間にか涙を流していた。

因みに父は4人兄弟の長男だが、我々は韓国にいる時からおばちゃん達をこんな風に呼んでいた⇩

①大きいおばちゃん(長女)→큰고모
②中間おばちゃん(次女)→중간고모
③父(長男)→우리아빠
④小さいおばちゃん(末っ子)→작은고모

これは余談であるが、僕は幼年期から父と母の『結婚式のアルバム』を見返すのが何となく好きだった。だが、いつも不思議に思っていたことがひとつある。「なぜ、父の家族は一人も写っていないのか?」。実は生前の父に何度か尋ねてみたが、彼は一度も答えを返してくれなかったのだ。それには父の家族をめぐる『悲しい秘密』が隠されているのだが、その理由を知ったのは僕が大人になってからである。まぁ詳しい事情は何回かに分けて更新予定のこの日本旅行記の後半の部分で明かすことにしよう。

そんなわけで日本に到着した日は、小学生にしては長時間の移動であり、バタバタ感もありで疲れ果てた三兄弟は『大きいおばちゃん』の家の部屋で早めに眠りについた。

そして、翌日の朝から僕の好奇心あふれる『日本滞在記』が本格的にスタートするのだが、僕にとっては、まるで『洋々たる未知の世界』へ飛び込むような冒険らしきモノであったのだろう。

아사쿠사

次回の連載は1月15日(金)に更新予定です。

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マッコリマン
tomodachinguのソウル本部長です。
主に企画をしたり、取材をしたり、文を書きます。
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