1985年の韓国。オリンピック開催を3年後に控え、ソウル市内では江南地区を中心とした大々的な都市開発が行われていた。『より綺麗な街に』、『より先端な都市に』、『とにかく発展途上国から先進国へ』と様々なスローガンが飛び交う大変革の真っ只中。矛盾にも我が家族は韓国を出て行く準備に取り掛かっていたのである。
世界史の本には第2次世界大戦後から1991年ソ連の共産主義が崩壊するまでを『冷戦時代』と記されている。簡単に言うとアメリカを代表とする『民主主義陣営』とソ連を筆頭にした『共産主義陣営』が対立していた時代を示すのだろう。
さらにその両サイドのイデオロギーのぶつかり合いが克明に表れたのが『朝鮮戦争』。その大惨事によって朝鮮半島はアメリカとソ連が勝手に引いた38度線を中心に南北で真っ二つになる。結果、皆さんもご存知のように、北朝鮮と韓国は今や世界唯一の分断国家となっている。
以前この連載で諸々述べているように、あの冷戦時代の悪影響がうちにまで浸透していたのを知ったのは大人になってからだ。
母はこう証言している。「常に父をつきまとっていた国家情報院の人たちは、父の職場が変わる度に姿を現して同僚たちに何か変な様子はなかったのかしつこく聞き込みを行っていた」と。
さらにもうひとつ。父は自分の家族が招いてしまった悲劇を子供たちには絶対引き継がせたくないと口癖のように語っていたそうだ。
まぁそんなわけで。父と母が他国への移民を決めたのは、多少悲壮な言い方をすれば『亡命に近い決意』だったと僕は判断している。
もうこの韓国という地に嫌気がさしたのだろう。できれば韓国から最も遠い国へ。韓国人の少ない場所へ。地球の反対側だって構わない。そんな切ない思いで、『アルゼンチン』という国を選んだに違いない。
僕は中3の夏休み明けになって、ようやく周りに移民することを打ち明けた。そして徐々に身の周りの整理をし始め、12月に入ってからはお世話になっていた人々に別れを告げに行った。
当時付き合っていた小学時代の同級生の女の子。僕を洋楽の素晴らしい世界へ導いてくれた街のレコード屋の優しいお姉さん。ローラーディスコで知り合ったヤンキーヌナたち。そして、中学時代の3年間、数々の悪さを共にした仲間たち。などなど。
素晴らしい思い出をありがとう。みんな、大人になって再会しよう〜。
そして、残りの余生は韓国で過ごしたいと意地を張って一人で韓国に残った頑固な我がハルモニ、さよなら〜。僕の祖国よ、さよなら〜。